どしゃぶりの雨に遭遇して喜ぶ人はいない。
歩く以外の交通手段がなく、傘も無いとしたらどうだろうか。
一瞬にして心に重石をつけられた気分になる。そこで足止めをされるか、ずぶ濡れで歩くか、どちらかを選ばなければならない。どしゃぶりの雨を喜ぶ人はいない。
しかし、そんな最悪なはずのどしゃぶりの雨に遭遇したある日。
私は忘れられない経験をすることになる。
それは数年前の夏、渋谷駅で起こった。
その日の天気予報、都心はおおむね晴れ。「朝から強い日差しで真夏らしい1日となるでしょう」、と朝のテレビ番組から聞こえてきた。
朝の空は晴れ渡り気持ちが良い。
これからジリジリと暑さを増していきそうだった。その日は仕事が休みだったので、日中に溜まった家事を済ませ、夕方の美容院の予約の前に本屋に行ったり買い物をしたりしたいと思っていた。
夕方に予約した美容院は、渋谷にある。なかなかの繁盛店で、担当のスタイリストも人気があった。
せっかくの予約だ、遅刻はしたくない。
家を出て、目当ての店を巡る。眩しい太陽の光がぐっと熱を帯びてきた。朝の予報通りだ。
用事を済ませ、電車に乗り予約の待つ渋谷駅に向かう。
ところが、夕方の渋谷駅に到着した時。
そこで目に飛び込んできた光景が異様だった。
ホームで電車を待つ人だかりの中、そこにいたのは、頭から洋服もカバンもびっしょりと濡れた人たち。
「え・・・?」
状況が分かったのは、電車から降りて改札口を出た時だった。
さっきまで見ていた、明るい空はどこへいったのだろう。真っ暗で重たい空から、激しい雨が渋谷の地面を無数に叩きつけていた。局所的に激しい雨を降らす、いわゆるゲリラ豪雨だった。
駅の出口は雨で足止めをされた人たちで溢れかえっていた。
「なにこれ、うそでしょう・・」
動けない。心に重石が乗り始めた。
ずぶ濡れで美容院に行くわけにもいかないし、だからといって遅刻もしたくない。腕時計に目をやり、空を少し恨めしそうに見上げた。止みそうにない雨を眺めながら、立ち尽くすしかないのか。周りの人だかりはどんどん大きくなっていく。
そのとき、私の腕を何かがぐいっと引っ張ったと同時に、目の前の情景が動き出した。
「行くよ!こっちでいいの?」
「!? ・・あ、は、はい」
一瞬のことだった。答える間もなく体が前に進んでいく。
私の腕をぐっと掴んで駅から外に向かおうとする女性。その手には、大きな傘。
渋谷駅で膨れていく人だかりを抜けて、どしゃぶりの雨の空の下へと踏み出していく。
「途中までだったら、傘に入れて送ってあげられるからね」
濡れた地面を颯爽と進みながら、カラっとした明るい笑顔でその人は言った。
「あの、ありがとうございます、本当にいいんですか・・」
私は自分の身に起こっている幸運を、にわかに受け止めきれずにいた。
それでも、私の沈んでいた心はその人の軽やかな佇まいに引き上げられていく。
「いいのよ。あの中で、あなた一人しか助けられないけどね。私、あなたと同じくらいの娘がいるの。あの子も今頃、誰かにこうしているといいなー、と思って」
「どうやってお礼をしたらいいか、わかりません・・」
「それは、あなたが今度、誰かを同じように助けてあげればいいのよ」
その後、私は美容院に定刻に到着した。
お気に入りの靴だけが無残なくらいにびしょ濡れだった。でも、そんなの気にもならなかった。暖かい優しさに包まれる幸福感が、嫌なもの全てをひっくり返して陽を当てていたからだ。
この傘を持った女性のエピソードは、その場にいた美容院のスタッフをも感動させた。私の周りにいた人たちにまで暖かさを伝染させたのだ。
どしゃぶりの雨を喜ぶ人はいない。
でも、次のどしゃぶりの雨の日は、名前も知らぬ誰かに暖かさのバトンを渡す機会になり得るのだ。
そうだとしたら、どしゃぶりの雨だって、案外悪くないではないか。
素敵な色の大きな傘を手にしていたなら、尚のこと。次は、あなたの番かもしれない。
writer 井出順子